-アカイイト〜血は水よりも濃く、そして甘い-


 これまで「百合姉妹」の休刊から「百合姫」への引継ぎまで何度か触れてきましたが、「百合姫」の創刊1号がでたのでそこから始めます。雑誌は作家陣の顔触れだけでなく、そのまま続きを連載していることもあって単に雑誌名が変わっただけという印象です(ただ森奈津子先生の百合についてのエッセーがつまらない相談に応えるコーナーになったのが残念)。でもそもそも百合の魅力とはなんなのでしょうか?

 一大ジャンル、萌え属性として認知させた作品として「マリア様がみてる」をあげて否定する人はまずいないでしょう(その原作の魅力を台無しにする構成でもってアニメ化は黒歴史化しちゃいましたが)。ただ、この作品をメジャーなものとして押し上げるべく地味な布教活動に努めた人たちの存在がいたということを忘れてはいけません(まあ、私も学生時代勤しんだ人だけどさ)。つまり、百合という女の子同士の戯れに過剰な幻想を抱く熱心な信者がこの作品以前に存在したということです。そのルーツを遡って「リボンの騎士」とまではさすがに言いたくありませんが、「セーラームーン(Rとした方が正確?)」は源流の一つとして指摘できると思います。また私にとって自分の中に潜んでいた百合属性を明確に気付かせてくれた作品は「少女革命ウテナ」でした(幾原監督にとって時代の閉塞感を打破する存在として少女に期待していたのかな?)。これに「セイントテール」「カードキャプターさくら」などを足せば「マリ見て」に至った支流は押さえられるのではないでしょうか?

 重要なのはいずれも少女漫画(「マリ見て」だって、その内容は限りなく一昔前の少女漫画「的」です)から出てきたということだと思います。どうして少女漫画だったのか?その答えは女性にとって少女から女性へと変わらざるをえないことで、「性」と嫌が応にも向き合わざるをえないことによるものでしょう。それは生物として生理という産む性であることから訪れる不条理な苦しみであり(この点を「マリ見て 紅薔薇さま、人生最良の日」ではきちんと描いています)、社会的にも男性(家、社会、国でもなんでもいいです)のために産む性、あるいは快楽に奉仕する性(ようやくホストが社会的に認知されるようになってきたが、水商売は女性を商品とするものが未だに主であること)であることです。

 だからこそ、「性」ということが少女漫画にとって主要なテーマとなりうるわけです。24年組が切り開いた地平はその不条理をどう見つめていくかであり、自明視されている性の不条理を著すために男性同士の恋愛を描いたわけです。恋愛=結婚=育児という流れに異を唱えるために産む性という不純物を取り除くと純粋に恋愛(≠プラトニック)が残るというわけです。そして産む性という不純物を取り除く意味では女性同士であっても同様です(要は生殖が適わなければよい)。同じ同性愛をテーマとして、男性同士を描くか、女性同士を描くかの差は女性の視点を通して異性である男性を描くこと、同性である女性を描くことの差です。いずれも生殖を省くことで幻想的な美しさを纏いますが、一方は女性にとって理想像としての異性を描く(だからこそ、腐女子にとっては欲望を忠実に満たすジャンルとして隆盛を極めている。俗称「性コミ」に代表されるあからさまな男女の性描写に対する需要が男に取ってのアダルトビデオ、雑誌と同じ機能を果たすものであることとの差は+αとしての幻想です)。他方、女性同士の同性愛は基本的に友愛の延長上であり、また女性もある程度現実を担保しているのではないだろうか。

 そして今、百合を享受しているのは専ら男性です。それは秘密の園を覗いている、見守っているという幻想を享受しているということなのでしょう。現実そのものの生々しい女性像にはワンクッション置いているがある程度リアルです。しかし生殖を除いているため生々しさが排除され、ただ純粋に見つめるという欲望が成立しうる。だからこそ、異性(自分自身を含めた)の存在は排除した聖域でなくてはならないということです。この点、妙に生々しい作品が出来上がっているとき、その構造は腐女子向けのボーイズ作品の登場人物を女性に置き換えただけ(=男性向けにした)ということで理解できるのではと思います。この点を書評日記  パペッティア通信さま「花咲けるジェンダーのテロリズム 『コミック 百合姫』創刊号」で既存の性秩序を超越する可能性があるのに、安易な消費物として回収されていく、そして自分もその行為に加担しているというなんとも鬱屈した想いを表現なさっています。

 …前置きのはずだったんだけれどどんどん長くなってきたので、最後に「百合姫」の対談から一部を引用して「アカイイト」へと移ります。

 「First Kiss」を連載しておられる蔵王大志×影木栄貴(掲載漫画で百合姉妹に一度載せたものを再度そのまま流用という姿勢はいただけない)、両氏は次のように述べられています。

;実際、性的なことに関しては男が主導権を取ることが多いこの世の中に対して、ちょっと思うところがあるってことも織り込んで描いていきたいですし。そういう、女のゆったりとした性周期を待てない男に対する不満も描いているつもりです。

 この辺りは上述した内容と重なります。

;私は「百合を思春期って言葉だけでこまかすな!」って言いたかったんです。思春期だけで終わる幻想だと思ってほしくない。

 これは同感です。ただやはり、現代社会では多くの人にとって同性愛というのは今のところという留保付きですが、現実を乗り越えるための幻想、消費物、あるいはヘテロとしての代替物であるということ。本気で現実に同性愛を生きるというのはかなりしんどいということは覚悟しておくべきことです。

;幻想ばかり抱くなよ、なんて(笑)。結局、百合に興味があるライト層を百合に引き込まないと、百合ジャンルの発展はないと思います。だからやおい世界と同じで、いろんな間口を広げて、いろんなシチュエーションの百合を描いていかないと。ライト層を取り込めなかったら、そのジャンルは衰退するんじゃないでしょうか。ある程度の土壌にしなければ、百合そのものが淘汰されちゃう。
 ;バリエーションがないとね。
 ;だから、精神論だけでキラキラした百合が好きな人はわかるけど、ほかの百合も受け入れる心の広さを持たないと、百合自体がなくなりますよ。「受け入れろ」までは言わない、見ないふりしていいから存在は認めて欲しい。
 ;もっと間口を広げるためには、可能性を広げていかないと。今まであったカタチだけじゃなくて、新しいモノにも手をつけていかないと。ライトな人たちは、間口が狭いとその時点で読んでくれないから。

 また「多様性」かよと思われるかもしれませんが、私にとってなにより大切なもの(多様性と柔軟性が両天秤です)と考えておりますので、作品とは切り離して両先生のその志の高さには感動しました。

 で、その百合の可能性、ジャンルの豊穣を図っているという点で是非にも、いや何が何でもお勧めしたいのがゲームの「アカイイト」(近々廉価版も発売するようです、ただ初回版の方についているアンソロジーは非常にお勧めなので、待てなければ買っても問題ないと思います。)というわけです。女性の性のサガそのものをメインテーマとしているわけではないが、切っても切ることができない「血」をうまく、伝奇もの(各所で語られるコネタ含め非常に緻密な世界を築き上げています)という本編に絡ませて独特の妖しさを表現しています。

 発売からもう少しで一年(そして1周年と同時にCDドラマの発売がほぼ確定)経ち、先日ノベルも発売されました。ただこれはあまりお勧めしません、むしろWeb上で公開されているWebノベル「アカイイト」(ゲーム本編でいうところの「此岸と彼岸」エンド、葛ちゃんルートのトゥルーエンドの位置づけ)の方がお勧めです。ただノベルの後書きでプロデューサーが述べている小説、漫画と比較したアドベンチャーゲームの強みは幾通りもの可能世界を見せること(これも「痕」「Air」の延長であり、付け足すならば実際に「アカイイト」でも行っているようにその可能世界の見せ方もルート管理によりできること)で、世界をさまざまな観点からより深く深く掘りこめるという意見には大いに肯くところです。

 結末一覧(32あり、ハッピーエンドが5、トゥルーエンドが5、それに正規エンドに勝るとも劣らぬ魅力のあるエンド…例えば「やりたい放題好き放題」「鬼切りの鬼」「満開の花」もあり、決して作業ではなく喜び勇んで分岐図を見ながら埋めるいくことになるでしょう)を総て埋めたとき(そしてアルバムをも)、各単独ルートでは明らかにならなかった謎のピースが一つ一つ、一枚の綺麗な絵として収まりその美しさに感動するはずです。

 是非プレイしていただきたいので直接のネタばれは避けますが、守られる性から守る性へ、家という柵に囚われる性、交換財としての性、無条件に包み込む母性としての性などジェンダー論を紐解けば必ず目の当たりにするようなテーマを網羅しています。単に伝奇ものと女性同士の恋愛を組み合わせれば百合という表現の可能性が豊饒化するとは思いません。きちんとした世界を構築した上で百合に本来流れている既存の性秩序に対する異議申し立てを含んでいることが素晴らしいのです。そして同時に決して「女性だから〜」のようなフェミニズムっぽい言説を登場人物に吐かせて逃げるようなことはしていません、それらのテーマを解決することが物語の本編ではない以上、紡がれる物語の中でキャラクターの振る舞いによって自然と表現するに留めています。おそらくプレイした後にこの感想を読むと首を捻りたくなる向きもあるかもしれない。ただあくまで再生産を含まない一代限りの関係においてその生き方を選択しているということに想いを致すと納得していただけるかと思います。

 総てを繋ぎ合わせる血…血は女性の象徴であり、家といった柵の象徴であり、家族という縁の象徴であり、性行為をも意識させます…が儚さと同時にどこまでも強いものとして主人公を介して物語を編み上げていく傑作として仕上がっています。

 まあ、単に羽藤桂ちゃんの「私の血は甘いよ…。」なる最強の誘い受けの言の葉に悶えるだけでも充分です

(管理人が許可を得て転載しております。無断転載を固く禁ず)

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