-「アカイイト」 愛を贖うのはただ自ら流した血によって-

(2006/04/02)

 toppoiさんの「アカイイト」紹介文にあてられての献上品。以前に書いた「アカイイト」血は水よりも濃く、そして甘い。(及びコメント欄では)では主に「百合」についての語りであって、出来うる限り抑制的なもの(ネタバレもパトスも含めて)を心がけていましたが封印解除。羽藤桂という主人公を中心に思いの丈を綴ります。

 「どれくらい自分のことを愛している?」恋人同士の間で交わされるとされる会話、これくらいとかめいいっぱい手を広げたり、宇宙より広いとか答えるのがお約束とされる会話。お遊びの意味のない会話として看過すればいいのかもしれないけれど、真剣に考えてみたことがあるだろうか?果たして愛の深さは何によって示されるのか?私はこの作品をプレイした後ならば自信をもって答えられる。それは相手の為に流された「血」の量によってと…。


以下 「アカイイト」プレイ済み限定の内容。

 桂ちゃんがどういうキャラクターであるかは日常においてどのように扱われている(た)か、主に奈良陽子の目を通して語られている。お人よしで騙されやすく、若干抜けていてほわわ〜んとした弄りがいのある少女。もちろん経観塚での何気ないやりとりでも描かれてるけれど、旅先ということも含めて日常というのは多少無理があるだろう。だからこそ日常としての陽子は携帯を通してという距離を守り、意地でも本編に登場させない(設定原画で用意していたに関わらず顔を映さない)。登場するのは桂ちゃんが非日常と一線を画したことが確定もしくは、非日常をも日常化したエンディングのみとなっている。葛ルートにおける「此岸と彼岸」エンドなどはそのエンディング名も含めて越えられない(桂ちゃんは超えるんだけれどね)境界を明示している。

 ただそのような天然系のキャラであっただけならば、物語のそして絆の深みは描けなかったはずだ。彼女の真価が発揮されるのは守りたいもの、新しい家族(妄想含め相手側にどのような感情が抱かれているかはさておき)が出来たとき、そして危機時に顕れる自らの身を省みない、いや見た上で即断で捨てられる強情さ、度胸、決断力にこそある。そのギャップは帰るべきものとして日常が生きているからこそ光り輝いている。

 利他性がどうして生まれるかは子孫を遺すことつまり血縁及びゲーム理論の相報性の原理に因るが、桂ちゃんのそして桂ちゃんを守るための柚明、サクヤさん、そして烏月の行動はこの作品を鮮やかに彩る「血」で説明がつくだろうか?もちろん究極要因として愛情が生まれる経緯と愛情が生み出す至近要因は違うけれども、それでも損得計算という「理」の上をいく「情」の世界が広がっていることは確かです。例えば、桂ちゃんは既に家族がいない天涯孤独の身(実際には違うけれど)であり、自己犠牲に走った時点で「血」は絶える以上既に「理」ではない。柚明は確かに桂ちゃんと血縁関係にあるので「理」の範疇に収まると一見思わせるが「血」の濃さにおいて桂とケイは同値であるにかかわらず、その扱いの差は雲泥としかいいようがない(始終桂ちゃんのことは見守っているに関わらず、烏月に切られそうになっているケイは助けようともしない…)。サクヤも竹林の長者の娘、笑子、真弓との関係性に基づく相報性と思わせておいて、ケイに対しては…となっている(いくら男の子とはいえこの扱いの差は可哀相です)。

 まあ、要は桂ちゃんL・O・V・Eということなんだけどね。


 【柚明(変態じゃないヽ(`Д´)ノ)ルート】における桂ちゃんが魅せる姿は、めいいっぱい「甘え」る娘であり、与える性としての母性である。烏月さんを除くルートでは明らかになっていると思うが、いくらぽやや〜んと見えていても、否それだからこそ母を失って独りになった寂しさに打ちひしがれ、人恋しさを募らせている。だからこそ、その空席を埋めるような特定の誰かを求めている。

 髪を漉いてもらったり、タオルで身体を拭いてもらったりと桂ちゃんは精一杯柚明に甘える。それは従姉妹に対するものではない、求めているのは母に対するものである。だからこそ見るものにとっては彼女の寂しさが同時に伝わるだけに甘い。柚明もまた桂に対する愛には際限がないまさに「母性」でもって応えている。世界の破滅よりも桂のひと時の安全を選ぶことは厭わず(「隠れ鬼〜テンショウ」)、桂の無事のためならば二度と会えることがなくなろうが黙って封印される(「彼岸の花をつかまえて」)、力を使い果たして消える(「一片の残花」)、サクヤ、烏月ルートでは真実を知らせること黙って舞台から消えていく。そこには金銭どころかメンタルな面でも見返りを求めるといったあさましい得失関係はなく、ただただ与えるだけの「愛」しかない。そして桂も惜しみなく「血」(=乳の代用)を与え続ける母性をも垣間見せている。そして「赤い絆」において手首を深く切るという自殺すら厭わない激しい行動に躊躇うことなく及んでいる。


 【サクヤルート】では恋人としての色合いが強い、共に寄り添って生きていく(いきたい)対幻想としての性が描かれている。だからこの場合の理想は実は「永遠」を手にすることとなっている。サクヤにとって桂に抱いている恐れは、自分自身が化物であるという事実を受け止めてもらえるか(だからこそ、他ルートではその正体を明かさない)であり、一人遺されるという事実を自分が受け止められるかということである。そして桂の凄みはその両方を理解し、ともに歩んでいくことを選択できることである。

 サクヤがその圧倒的な生の長さからくる親しき者の死を看取らなければならないという悲しみ、相対的に露になる他の生命の儚さからいかに逃れているか。それが写真家という職業であり、引越しにおいて明らかになっているように大切にしている、執着している「モノ」がのは写真のみという事実である。壊れやすい「モノ」たちを「永遠」にする道具としての写真、彼女がファインダー越しに見つめるものを考えると、時折垣間見せているが(飲酒時など)日常で見せている底抜けの明るさが虚構であることが痛いほどに伝わってくる。

 だからいくら現在が幸せであって先のことを受容できていると納得しているとしても、一人遺された後の悠久に近い時間を思うと、サクヤにとっての本当のハッピーエンドはともに「永遠」(厳密には同じ長さの生だけれど)を手に入れた「満開の花」であり、「鬼切りの鬼」なのだと思う。


 【烏月ルート】はまさにこの「アカイイト」という物語全体を手繰り、プレイヤーをこの世界に引きずり込む役割を担わされているだけあり、伏線が可能な限り張り巡らされているだけでなく「アカイイト」の要素が濃縮されている。それは物語の展開としてだけでなく、人間関係のあり方、絆についても濃縮されている(もちろん、おまけ扱いの【ノゾミルート】の圧縮振りには劣るけれども)。それは絆が生まれ、深まり、そして…の早送りとなっている。初めに触れたように絆の深さは時間に必ずしも左右されない、烏月と桂の絆の深さは時間経過としてはたった数日であっても離されないほどに一つに融けあっている。

 きっかけは桂ちゃんの一目惚れからの強引な押し切りであったが、一過性の発作に過ぎないのが大半である恋愛から離れたのはどの地点か、それは桂ちゃんがその身を烏月の剣の前に晒した時点であると思う。なぜならばそれが一度だけのことであったとするならば、発作的に蛮勇として表れることもあるだろう。しかし、死の恐怖を痛みを経験した上で桂は躊躇うことなく二度、三度とその身を捧げ続ける。

 それこそが桂ちゃんの愛の本質であり、「アカイイト」が表現しているもっとも重要なテーマなんです。大切なものの為に、絆の為に惜しみなく我が身を捧げ続けること(おはしらさまとなることを選んだ柚明であり、死別の辛さを超えて羽藤の者を見守り続けるサクヤさん)、それを圧倒的に存在感をもち具体的かつ鮮明に表現するのが、冒頭にも記した「血」なんです。だから烏月ルートにおいて「血」にもって「血」で応えた「赤い維斗」エンドこそが「アカイイト」という題名をなぞっているように最も本質を直戴に表現している。

 究極の愛を担保するもの、表現するに必要だったのが、桂ちゃんを中心に紡がれる「絆」を明示化するものが、流すたびにアカイイトとしてイメージ化される「血」だったということなのでしょう。

『我々はどこから生まれてきたか、愛から。我々はいかにして滅ぶか、愛なきため。我々は何によって自己に打ち克つか、愛によって。我々も愛を見出しえるか、愛によって。長い間泣かずに済むのは何によるか、愛による。我々をたえず結びつけるのは何か、愛である。』

                                         ゲーテ「シュタイン夫人へ」

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